PLUTO(プルートウ) (1)を読む。
ロボットが死ぬ、とはどういうことなのだろうか、と考える。
ソフトウェアや記憶バンクはバックアップを取っておけるだろう。処理ユニット(ハード)は替えが効くだろう。(この時代、製造コストは大幅に下がっていることだろう)
だから、たとえこなごなに破壊されたとしても、一部記憶が飛ぶにせよ復元は可能なハズである。
ところが、この物語ではロボットがどんどん「死ぬ」。
記憶をたどる(メモリを共有する)ことはできても、もう帰っては来ない。
ということは、ロボットそれぞれには、固有の認識・・・何というか「魂(
Ghost in the shellっていうか)」?が存在し、個体が破壊されるとそれは復元不能だということなのだろうか。
ロボットは夢を見るか。
ロボットは近しい人(配偶者や友人)を失って悲しむか。
ロボットは闘いを忌み嫌ってピアノを習いたいと思うのか…。
鉄腕アトムの「地上最大のロボット」、これは人間の奢りや虚栄心がテーマであった。(たぶん)
素朴なヒーローものに終わらない、手塚世界の白眉とも言える作品だった。
(子供の頃、ドキドキしながら読んだ
それがリアルタイムであったことはナイショである(^^;))
さて一方このリメーク版、まだ第1巻が出たばかりなのでストーリーやテーマがこれからどう進展するかはナゾだが、人間型のロボットが現実味を帯びて来たこの時代にあって、機械が心を持つのか否かに鋭く迫っていくらしい。
「バガボンド」以外のまんがの単行本、久しぶりに買っちゃったなあ。
ところで、人間は「脳」の似姿を作れるだろうか。
AI(人工知能)のように一部をまねることはできても、まったく同じものは作れないという。
なぜなら、人間は人間の脳の働きを100%確定することはできないからだ。
(クルト・ゲーデルの不完全性定理)
認識とは、脳の特定の細胞の動きではなく、脳全体を走るパルスによって司られているという話もきく。
処理系がとんでもなく複雑になった時、ロボットが魂とか心とかを持つことはあるのかもしれない。
それはたぶん、人間が意図して作れるものでは全くないだろう。
人間の友達、あるいは人間の道具だなんてとんでもない、それは人間とのコミュニケーションさえ成り立たない、理解不能で恐ろしいものであるに違いない。
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完結後の感想は
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