「
神々の「Web3.0」」 (小林雅一) 光文社ペーパーバックス
こういう本は図書館で借りれればそれに越したことはない。
だって、まず二度は読まないもんね。
で、図書館で予約したんだけど、受け取ってまず「ぎゃっ」と思った。光文社ペーパーバックスというシリーズの本だったからだ。
このシリーズ、欧米風のペーパーバック体裁だったり横書きだったりするのはいいとして、本文に時々横文字が混じる。キーワードの訳語が入っているのだ。アメリカ語を覚えろっつーことかい。単語だけぽろっと出しても意味ないと思うし、いちいち思考が途切れちゃって不快なだけなんだわ。
それ以外にも、「2.0」の定義が決まっていない中で「3.0」もないべさ、とか、題名の「神々のWeb3.0」が併記のアメリカ語タイトルでは「The Gods of Web3.0(Web3.0の神々)」となぜか逆順になっていて、アプローチが情緒的すぎるんでないのか、など読み出す前から違和感テンコ盛りなんである。
(なんでそんな本を借りるんだよ(笑))
ま、気を取り直して本の内容の話を。
一応書中では、次のように定義されている。
Web1.0 -> ブロードキャスト(放送)型
Web2.0 -> ネットワーク効果(集合知)
Web3.0 -> 人間関係の解析(ソーシャル・グラフ)とカスタマイズ世界
1.0はWebブラウザが作り、2.0は検索(グーグル)が作った。さて3.0を作るのはなにか?(少なくともその担い手は「神々」であろう) という話であり、そうした文脈の中で、「3.0」の萌芽…現在のWeb界で生まれて来つつある諸現象(SNS、ユーザ発コンテンツ、セマンティックWeb、モバイル・オープン化、メタバース(サイバースペース)といったキーワード)が語られる。
読んでいて、TVはもう要らないという辺りは同感だが、例えば「SNSの3D化」や「人間関係を勘案した広告」などは「要らね~」、「キモ~い」サービスでしかなく、既に自分のニーズにはない領域のデキゴトなのである。
「理解できない」というのではなく、「ニーズがない」のだ。
しかし、生まれた時からパソコン(インターネット)やケータイがある次の世代の人類(今の、もしくはこれから生まれる子どもたち)は、同じようには考えないだろう。まったく別のニーズをもって育って行く。
「Web3.0」というのは結局そうしたフェイズであり、「神々」もそうした子どもたちを指しているのだろう。
情報技術が生活実態を追い抜いた感のある昨今、価値観や文化も親から子への継承ではなく、世代内での水平共有のような形になりつつある(あるいは、既にそうなっている)と思われる。
子どもと、情報端末やゲーム、バーチャルな関係というものがわからないオトナとの共通言語がなくなっていたり、わからないオトナを子どもが嗤うのは、「自然な」流れなのである。
より根元的な、文字通りの次元の断絶がそこにはある。
それは、この本がいうような「2.0が進化して3.0へ」などという連続的でのどかな進化ではあり得ないのではないか。
皮膚感覚そのものが違う…これはある意味、「わからない」よりコワイことだ。
そこで思い出すのは、クラークの「幼年期の終わり」…われわれ旧世代のオトナには想像すら及ばない未来が近いうちにやって来る。
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