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2005/03/21 月

カービングターンはなぜ必要か?

カービングターンの科学
「カービングターンの科学」(市野聖治著:スキージャーナル社)を読了。

何たって難解な書なのである。
「スキーをつけた人間は、雪山の斜面を克服するために、自然そのものの一部にならなければならないことを学ぶのである。そして、この学習は、その挑戦の過程において、進化するものである。」(前文)…なのである。
哲学なのである。

シンプルな対象であっても、“科学”的に厳密を期そうとすれば微細な表現をしなければならず、一般読者にとって論旨は却ってあいまいになる。
それに、「山側に落下する」等を始め、論じられている諸概念がつかみにくいのである。
さらに、この人は文章そのものがあまり上手でない。

最初は、5ページくらい読んだところで投げ出した。何が書いてあるのかわからなかったからである。
二度目にじっくり読み通してみたが、やっぱりわからなかった。
それが悔しくて三周目をこなし、ようやく少しわかった。
カービングのためには、

  • 足ではなく、腰で乗る(体幹部荷重)
  • まっすぐ前を向き、遠心力に応じて身体を傾ける(進行方向への正対、水平面角付け)
  • 内足から切り込み(内足主導による始動)、両足均等荷重する

…ことがポイントになるらしい。

ベッドサイドに置いて夜な夜な読み進めたが、毎度2~3ページも進む前に眠くなってしまった。実によく効く催眠薬なのであった。
(今夜からどうやって眠ろう、って感じである)
ところで、カービングターンを、なぜしなければならないのだろうか。

いわく、

  • スピードを追求するために
  • 道具の進化に合わせて
  • 挑戦欲、ひいては自己実現のために

…という説明がされているが、どうもピンと来ない。ストンと落ちない。

帰納的手法により技術を体系化したオーストリア国立スキー学校の成果(スキッディング~パラレルターンの系譜)をさらに進化させるために、演繹的手法でターン運動の未来形を探る…「カービングターンの科学」は、そういうプロセスなのだという。

またいわく、「ヘルマン・マイヤーの滑りをどんなに真似しても、マイヤー以上の滑りにはならない」。
なるほど。
だがしかし…。

「カービングスキーがあり、それに乗る」「カービング理論があり、それを学ぶ」という順番が不自然な気がしてならないのである。
人なりに、ただいろいろな雪面を滑走し、喜びを得たりへこんだりする…高邁な自己実現も結構なことだが、そこを語らずして何の啓発だろうか。
せせこましい技術論が、スキーをつけた我々と自然とを融合できるのだろうか。
結局、日本のスキーがつまらない象徴が、ここにあるように思える。

ちなみに「日本スキー教程」という指導書も、この人の文章で始まる。「科学」の内容を、文字数に合わせて慌てて要約したような文章は、輪をかけてわかりにくい。

*
テレマークスキーを始めることになった動機も、実はカービングにあるように思う。
アルペンのカービングターンに、ほとんど魅力を感じなかったのだ。
言ってみりゃ膝下をてろーんとさせて体軸を傾ければ曲がるわけで、いったんできたとしても発展を考えられない。雪面からの圧力をがまんしたり、ピステンにレールを描いたりして楽しいわけでもない。競技にも興味はない。その先には、プッツリと何のイメージも湧かなかったのである。

さてテレを始めてみると、これが無性に楽しい。
フレキシブル…自由だから? 雪に近いから? 辛いから?(笑)
いや、ただ水に合っている、という感じである。それ以外に説明はない。
やっぱ、リクツは無用なのである。

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Comments

哲学やのう。
スキーを楽しむのにそんな理屈が必要かぁ?
滑る、曲れる、止まれる。
十分じゃん。

ワンピ着て堂々としていられる体型があれば、なお、よろし。
そういうオレも理屈っぽいかのう?
自覚はあるんだけどね…(^^;)。

滑り倒せば、ワンピ体型も付いてくる!
(来シーズン)頑張ろう! おう!

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