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2009/02/13 金

テツガクの歴史

25年ぶり?に読了。

奥付を見ると、昭和57年14版とある。
学生時代の最後の方に買った本かなぁ。

当時たぶん1~2ページしか読めなかった本をちゃんと読み通せるようになったんだから、一応進歩してる…のか?(´Д`;)
弁証法―自由な思考のために (中公新書 322)
弁証法―自由な思考のために」 中埜 肇 (中公新書)


「弁証法」といえばヘーゲルで、昔は哲学の代名詞みたいな気がしたもんだ。
この本は、弁証法の(著者が考える)定義と、その歴史を振り返る。ソクラテス、プラトン、アリストテレス、カント、ヘーゲル、マルクス・エンゲルス、キエルケゴールと続く哲学史のひとつの流れの瞥見である。

哲学と自然科学はかなり早い時期に分化したとなんとなく思っていたけど、人間の認識を相対的と見るなど、現代の認知科学に通じる内容を持っている点などは勉強になった。

*
ところで冒頭で著者は、「弁証法」など哲学用語の歴史的な揺れを指摘するとともに、ことばの曖昧さを放置してはいけないと説く。

このくだりを読んで、日本の文物のさまざまな名前がいかにいい加減につけられているかに思いが至る。(無意味な略語・多国語の無闇な混合・意味不明な雰囲気赤ちゃん言葉など)

そういえば弁証法の「弁」も、実はいささか問題を含んでいる。
「弁」はもともと「頭巾状のかんむり」を指す字だというが、漢字の簡体化のなかで「辯」「辨」「瓣」など意味の違う字が合流した。

「辯」は弁舌の弁で、しゃべること、論ずることである。弁証法の弁はこれに当たる。

「辨」は弁別、弁理の弁で、けじめをつけて分ける、処理することである。

「瓣」は、瓜の字が入っていることから連想できるように、花弁の弁である。

民間の略字が「弁」に向かっていた可能性はあるが、あまり意味を重く見ず、字形が似ていて響きが同じだから「なんとなく」一緒にしてしまった感がある。たぶん「日本的」な処置だろう。(あるいは、役所的)

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なにぶん25年前の古い本で「弁証法のその後」がどうなっているかは気になるところ。(フォローする気もないんだけど(^^;))

往時の輝きはともかく、弁証法の○○等とついた本はなおたくさんあるようだから、その命脈はまだ保っているらしい。
(この本もまだAmazonで買えるらしい)

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