コケで森を見る
「コケの謎―ゲッチョ先生、コケを食う」 盛口満 (どうぶつ社)
なんかで見て関心を持った本だけど、なんで見たんだったか(ヤマケイか道新かどっちかだと思うんだけど)、なんで関心を惹かれたか、まったく思い出せない(^^;)。
なぜオレがコケ?(笑)
まあ縁あったと思って読んでみたんですが。
話はまず「生き物屋」という人間の生態から話が始まります。冷蔵庫の中に生き物の死体が詰まっていて平気だとか(骨を取ったりするためらしい)、ゴキブリを飼育するとか、生物の研究者や好事家に、世間なみの常識を求めてはいけない、といった話。
いきなりコケの話を振られても入って行けなかったかも知れませんが、そんなクスグリで、つい上手に引き込まれてしまいます。
ほかにも例えば、生徒たち(著者は“骨屋”もしくは“ドングリ屋”で、沖縄県の学校などで教えている人です)の関心を引く「3K」があって、それは「怖い、キモチワルイ、食える」である(そしてコケは食える)。とか、沖縄のとある城跡の井戸周辺で絶滅危惧種に指定されているコケをみつけたが、それは立小便跡によく生えるコケだった(ということはそこで…?)。とかのエピソードの数々にクスっとしたりニヤっとしたりするうち、いつの間にかギンゴケだのゼニゴケだのに興味を惹かれちゃったりする自分がいるわけです。
話術が巧みなんですねぇ。
食えると言ってもコケには「不味い」ものが多いそうで、中でもとてつもなく不味いコケの話が出てきた時にはドン引きしてしまいましたが…。
でも最後に著者は、コケの勉強が深まり、“コケの病”が進行するうちに「コケが見たい」から「コケで見たい」に変わってきた、と言います。そのくだりは感動的でさえあります。
コケでなにが見たいのか? 森です。つまり、森にいる種々のコケが生育する環境(なぜそうなっているのか)から、森のありさまを理解するということなんですね。
山歩きをしていると木や花の名前を覚えたくなるものです。「山体験」がさらに深まるからです。鳥の声も聞き分けたくなる。石もなにか語りかけてくる。そして、コケにだって「コケ」と一言で済ませられない多様な世界がある…。
となると、今度はコケもちょっと注意して見てみようかな、という気持ちにすっかりなっちゃっているわけですねぇ。
啓蒙書として素晴らしいデキですね。
まあ縁あったと思って読んでみたんですが。
話はまず「生き物屋」という人間の生態から話が始まります。冷蔵庫の中に生き物の死体が詰まっていて平気だとか(骨を取ったりするためらしい)、ゴキブリを飼育するとか、生物の研究者や好事家に、世間なみの常識を求めてはいけない、といった話。
いきなりコケの話を振られても入って行けなかったかも知れませんが、そんなクスグリで、つい上手に引き込まれてしまいます。
ほかにも例えば、生徒たち(著者は“骨屋”もしくは“ドングリ屋”で、沖縄県の学校などで教えている人です)の関心を引く「3K」があって、それは「怖い、キモチワルイ、食える」である(そしてコケは食える)。とか、沖縄のとある城跡の井戸周辺で絶滅危惧種に指定されているコケをみつけたが、それは立小便跡によく生えるコケだった(ということはそこで…?)。とかのエピソードの数々にクスっとしたりニヤっとしたりするうち、いつの間にかギンゴケだのゼニゴケだのに興味を惹かれちゃったりする自分がいるわけです。
話術が巧みなんですねぇ。
食えると言ってもコケには「不味い」ものが多いそうで、中でもとてつもなく不味いコケの話が出てきた時にはドン引きしてしまいましたが…。
でも最後に著者は、コケの勉強が深まり、“コケの病”が進行するうちに「コケが見たい」から「コケで見たい」に変わってきた、と言います。そのくだりは感動的でさえあります。
コケでなにが見たいのか? 森です。つまり、森にいる種々のコケが生育する環境(なぜそうなっているのか)から、森のありさまを理解するということなんですね。
山歩きをしていると木や花の名前を覚えたくなるものです。「山体験」がさらに深まるからです。鳥の声も聞き分けたくなる。石もなにか語りかけてくる。そして、コケにだって「コケ」と一言で済ませられない多様な世界がある…。
となると、今度はコケもちょっと注意して見てみようかな、という気持ちにすっかりなっちゃっているわけですねぇ。
啓蒙書として素晴らしいデキですね。
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