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2008/12/01 月

父と息子は分かり合えるか

前に読んだ「晴子情歌」の続編である。
(ようやく読了)
新リア王 上
新リア王」 高村薫 (新潮社)


戦後「55年体制」の中で大臣を歴任して来た青森県選出の自民党代議士である父が、その不義の子であり、有名大学(たぶん東大)を出たあと北洋漁船に乗っていたかと思うと仏門に身を投じてしまった息子が住む寒寺を、単身ふと尋ねる。

片や泥臭い人間関係まみれの政治家の父と、片や社会や人のつながりといったものにまるで背を向けた禅僧の息子が対峙し、互いにその場に至った来し方を延々と語りまくる。
(作者の一方の動機としては、政治の世界と仏道修行の世界を思うさま書きたかったということもあるんだろう)

母の旧仮名づかいの手紙と、息子を取り巻く人の津軽弁とで互いの世界を描いた前作と基本的構造はソックリである。

が、近いと思われた母と息子がついに交差しなかった前作に対し、よくぞこれほどと思われるほど対極の舞台に置いた父と息子の結末は、ただ「寂しさ」という一点・一瞬のことではあったが、離反ではなく一致なのだった。


*
中でも父の語る政治の世界に、ズッシリとした読み応えがあった。

まず、政界での力学関係、林道や原発の誘致、地方政界の対立や世襲のメカニズム、国策捜査の中で命を落とすしかなかった私設秘書の存在などがある。青森県を舞台にした必然性はそこにあったかと思われる。

父は長男の裏切りに遭う。
それは中央集権型・利益誘導型の旧弊な政治体質と、地方分権を目指す新進の体質との対立の象徴として描かれる。

それはまた、大衆がすでに政治的な目を(マスコミの発達や生活の向上などを通して)持ち、「みんなで見る未来の夢がない」時代の中で中央集権型政治がその存在意義を失い、限界に達したことと、一方でカネの、モノの、人の、情報の格差が進む中、「地方分権」にも明るい未来なぞないのだということとの、行き場のない対立でもある。

この父、この息子ならずとも、実はわれわれすべてにとって行く道が見えていない現在という時間。

2005年刊行の本ではあるが、そんな政治・生活の閉塞状況をとっくに予見したような重厚な小説なのであった。


*
例の「合田」は東京の所轄警察署の担当者という立場で、本作にも電話で一瞬だけ登場する。
さらに続編の「太陽を曳く馬」が楽しみではあるが、読むのはいつになるのやら…。



(2009/10/15追記)

太陽を曳く馬」、読了。
1年を経ずに読めるとは望外であった。

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Comments

面白そうですな。合田さんも出てくるのかぁ。
いや合田さんは一瞬ですから…。
あっちの合田さんは4泊くらいするらしいけど(意味不明)。
あっちの合田さんはいつものように長めなようですね(さらに不明)。

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