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2008/07/14 月

ゲド戦記ノート(その後)

某筋から「ゲド戦記(1) -影との戦い-」を入手したので、ちまちまと読んだりネットで情報を拾ったりしていたら、その折りも折り例のアニメ映画が金曜ロードショーで放映されるというじゃないですか。

これは呼ばれたな、と思ったので、節を変じてこのアニメ映画を見てみました。

(以下、義憤に駆られて長文)
こ、これは…。
思っていたよりさらに酷いですね…。


1シーン1シーンを見る限りは、さすがジブリという感じで美しくもあり、ごく一部に「ここは気合い入れたな!」というアニメーションもあるんですが(レンガが崩れる場面とかね)、お話がまぁ酷い。

エピソードはブチ切れで、常に「え? なんでそうなるの?」のテンコ盛り。つじつまもへったくれもありません。テンポも悪く、ストーリー運びも場面展開も鈍重の一語。すべてにおいて説明不足で、「真(まこと)の名」とか「影」や「竜」の正体とか「肌の色」とか大切なキーワードも一向に立ちません。期待の「テルーの唄」もあまりにも唐突で、萎える以前にどっちらけです。目を背けたくなりました。

そもそもテーマ(この映画を通して描きたかったこと)はなんでしょうか? 原作にあるような存在の切実さ? アレンの成長(救済)物語? 「均衡」を取り戻すための勧善懲悪? アレンとテルーとの触れ合い? どれだとしてもまったく中途半端。
敢えて言えば「父殺し(吾朗君による駿氏殺し)」かも知れませんが、説得力はゼロです。

ただの「絵」です。
優秀なジブリスタッフ見殺し。
いや、絵があるぶんこれから「Earthsea」シリーズを読む人をミスナビゲートする(ひいては文学の宝を不当に貶める)犯罪的行為とすら言っていいのではないか。

やっぱ見るんじゃなかった。


*

前に書いた時には、原作との関係で考えていた自分でしたが、原作と比べるのは、あんまり意味ないですね。「映像化の時点ですでに原作からは離れている」んだし。

どうせ違うんだから、テーマをどれかに絞り込んでガッツリそれを描いたらよかったのに。
宮崎駿氏ならそうしたのではないか。

そこでWikipediaの説明を読むと、「ははーん、なるほど!」というようなことが書いてあります。
ル=グイン氏から宮崎駿氏にアニメ化のオファーが来た時に、氏は「これまでの自分の作品で既にゲド戦記の要素を取り入れて作ってきたから、今更できない」、などと断ったというエピソード。

確かに!

つまり、「ゲド」の心を理解できる作家なら「ゲド」をそのまんま借りてくる必要はない、ということですね。

アニメ映画は、「ゲド」原作本の「第3巻(さいはての島へ)」や、宮崎駿氏の「シュナの旅(キャラクターデザインはこれによるという)」を下敷きに作られているという。
あちこちから借りて、しかもちっとも咀嚼されていない。実に不幸な作品です。


*

原作との乖離ということで言えば、邦訳そのものもそうですね。

そもそも「戦記」じゃないし。
ゲドの親友の名前にしても、「カラスノエンドウ」というのと原作にいう「Vetch」とでは、意味は同じでもその持っているイメージはまるで違います。「真の名が違う」とはこのことか。
年寄りがみんな「わしは○○じゃ」というのもどうかと。

(もっとも、訳者の清水真砂子さんが北海道新聞紙上で「ゲド戦記には、作者さえも気づいていない豊かさがある…」と語っていたのを読んで、小説を読んでみる気になったのでしたが。
清水真砂子さんについてはぜひここも参照されたい)

結局、こういうのは原書を読まないとダメですね。
読めないけどさ。

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Comments

帰宅したら放映してました。
公開時に見ていた家人が「とても底の浅い映画です。」と予告。
結局、酔っ払ってしまってほとんど見てなかったす。
それでよかったのね。

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