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2007/06/03 日

デジタルであること

ビーイング・デジタル - ビットの時代 新装版
ビーイング・デジタル - ビットの時代」 ニコラス・ネグロポンテ (アスキー)


1994年から98年にかけて、WIRED(日本語版)という雑誌があって、よく読んでました。

中でも、最終ページの方にあったニコラス・ネグロポンテ氏のコラムが面白くて凄くて、真っ先に開いていましたな。
小から大へ、卑近から最先端へ、日常から宇宙へ、その鮮やかな切り口と縦横無尽に駆け巡る議論、それでいてわかりやすい説得力ある論旨には、ほんと陶酔さえ感じたもんです。

本書は、そのコラムの前半18本分をまとめなおしたもののようで、インターネットの揺籃期のような時期(1995年)に書かれたわけです。「アトム(物理的な時代)からビット(デジタル情報の時代)へ」という基本モチーフのもと、日本のTV戦略(「画質をよくするためだけのハイビジョン」)を嗤ったり、著作権の暗い未来を予見したり、「本当のマルチメディアとは」を提起したり、さすがの切れ味でデジタルの未来を予言しています。

一方、「インターフェイス」という一章に見られるように、音声認識などの入出力装置、ネットエージェント(電子的な執事のようなもの)、TVなど(既存のメディア、伝達手段)がより便利になる、といった視点は、わずか10年ほどの間に古びてしまったように思われます。
この頃はまだ、「技術とサービスはどこまでもリニアに進化する」という夢があったのだと思いますが、そこには「人間はどのくらいまで必要なのか」という視点はなく、限りなく楽観的です。
世の中は、それほど限りなく便利になるだろうか? もしくは、人間は、本当に機械の力を借りてどこまでも便利になりたいだろうか?
私なんぞは、懐疑的です。
(人間の方が、機械に合わせて思いも寄らない進化を遂げるというのは…たとえばケータイのインタフェースみたいに…あるような気もしますが)

そういう意味では、コンセプトというよりもテクニックを提示した本であったと言えるのかも知れません。

*
あと、印象に残ったくだりをメモっておきます。

  • インターネットに必要な資質とは、人為的な練習問題に答えるためではなくコミュニケーションのための読み書きである。
  • 未開人と無教養な人間の違いとは? 「未開人」は、緊密に織り上げられた社会に支えられながら、現代社会とはまったく違う手段で知識を世代から世代へと伝えている。これに対して、「無教養な人間」は、現代社会の産物だ。この社会の網の目はもつれてしまっていて、人を支える力がない。(サウジアラビア・ヤマニ石油相の指摘)
  • 蛇足ながら、(今回読んだ1995年版の)243ページに「ロバート・パーカー[訳注:美食家として知られるミステリー作家]やブルゴーニュの葡萄酒業者と一緒に名酒探しの旅に出たり…」というくだりがありますが、この訳注は間違いですね(笑)。

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